お道具箱の中

お道具箱の中でぐちゃっとなってたいつかの宿題を出してる感じ

知らなかった私より

 

 

ここ最近SNSでBlack Lives Matter(BLM)運動に端を発したたくさんのつぶやきを見るようになった。

その内容は多岐にわたっていて、私がそれぞれのつぶやきに覚えた感情や考えもバラバラだったのだけど、「知らないこと」は差別を生むのかどうか、という問題と(今回で言えば)人種差別とその諸問題にどういう態度をとればいいのか、という話が私の中で一番熱いので今日はこの2つについて書こうと思う。

 

人種(この言葉を使うことの是非は今回無視する)に関して、私が通うアメリカの大学はどのクラスをとっても話が出てくるくらい授業で人種とジェンダーが取り扱われるし、私の専攻は人類学社会学(Anthropology&Sociology)なので、私は自分が何も知らない人ではないと思っている。

高校時代留学した学校ではアジア人は私含めて2,3人しかおらず、人種差別に起因するいじめみたいな経験もした。アメリカの高校に留学する後輩を指導する立場としてサマーキャンプに参加したときも、いわゆるEuropeanとAsianの間に「無意識的に」生まれ、行われる離隔や差別心を見た(この話もいつか書きたいと思ってる)(いつか)。

 

 

でも、まだ知らないこと、わからないこと、誤解してることがたくさんあるので、もし間違ったことや変なことを言っていたら指摘してほしいです。あびゃーとか恥ずかしいーとはなるだろうけど、「なんだこいつ」とか絶対思わないので。

あと私は主に英語で人種や差別について学んだので時々英語が入ってくるんですが、適当な日本語が浮かんでいないか、英語のニュアンスで伝えたいだけなので「ルー大柴になってしまったのね可哀想に…(ルー大柴に失礼)」って感じで読んでもらえると助かります。決して俺英語話せるぜ↑ウェーイ↑イキリをかましたいわけではないのです。

()での補足も多いけど気にしないでね!!

 

 

「知らない方が差別しないのではないか」「差別される人やその理由、歴史を知ることで新たな差別心が生まれるのではないか」と話す人を見たとき、とても悲しい気持ちとやりきれない気持ちになった。

なせなら、私が大学に入って初めて取った必修の授業で人種について扱ったとき、私も「差別しない人は何も知らない人なのではないか」と考えたからだ。次々と舞い込む人種に関する情報に混乱し様々な思いが頭に浮かぶ中で、「差別しない人とはどういった人なのか」と考えたときに、何も知らなければ特定の人に偏見を持つこともないし、常にニュートラルでいられるから差別心も持たないのではないか…?と思った。

結論から言うと、私が持っていたこの考えは大きな間違いだと思う。無知は必ず人を傷つけ、差別を生み、助長する。そしてそもそも差別しない人などいないし、差別が存在しない世界など絶対にない。

 

 

批判したり喧嘩したいわけではなく、かつて同じような考えを持っていて、学ぶ中で、知っていく中でその考えを捨てた私がなにか話すことで、こういう考え方もあるのかと思ってもらえたらいいなという思いで書いています。ポジティブでもネガティブでも「ここどういう意味?」でも何でも、なにか反応をもらえたら読んでくれた人がいるのがわかって励みになります。

今気づいたけど「知らなかった私より」って今は知ってますっていう上から目線感あるし驕り高ぶり太郎だな。でもなんか気に入ったのでそのままにします。題名って難しいよね!!(許して)

 

 

 

なぜ「知らないこと」が差別を生むのか

私は「知らないこと」「能動的に学ぶ姿勢を持たないこと」は差別を生み出し、助長することになると思っている。理由は主に2つある。

 

1つ目はこの世界に差別が浸透しているから。私達の生活や考え、というか私達の世界は私達が思っている以上に歴史的社会的文化的に構築されている。(こういう話はデュルケームという人が有名なので興味がある人はぜひ読んでみてください。)

問題なのは、この社会や世界は常に強者(この強者は必ずしもマジョリティーではない)によって、彼らに都合のいいようにできているということで、これはつまり抑圧されてきたグループの人々にとっては不条理な世界が構築されていることだと私は考えている。

もしあなたや私がこの強者によって作られた世界の強者の側だったとき、私達の誰もこの不条理で偏った私達の考えや社会のシステムに気づくことができない。なぜならこの世界は私達に都合のいいように、私達の価値観に合うように作られていて、私達にとってはこれが「自然」だから。

「知らないこと」はこのまるで完璧に機能を果たしているかのように構築された世界が抑圧し隠してきた人々の存在に気づけなかったり、その結果無意識に彼らを再度抑圧したり、傷つけてしまうことにつながると私は思う。加えて、私達に深く染み付いた偏見や差別心は自分たちの加害性、特権、または被抑圧階級の歴史を知らないままでは絶対になくならない。「知ること」でしか私達は「普通の」社会から排除されてきた人々や自分たちの偏りを可視化できないのだと思う。

 

これは私達が抑圧者だった場合の話だが、私達は被抑圧者にもなりうる。私はその場合でも「知ること」が大事なのだと思う。なぜなら、最も抑圧された人々は自分たちが抑圧されていることにすら気が付かないからだ。まあつまり「サバルタンは語ることができるか、いやできない」状態なのである(この本読もうとして今心が折れかかっているので一緒に読んでくれる人募集してます)

知識がなければ自分が抑圧されていることにすら気づけないのだ。逃げ恥で話題になったやりがい搾取や最近徐々に注目を浴びて来ているLabor of love(直訳は愛の労働、報酬目的ではなく好意などから自発的に行われる仕事の意。家庭内で女性が担わされることの多い家事育児などがこの愛の労働として自発的に行われているため報酬等が要らないのだとされる考えや、そのような考えでこれらの労働を軽視することを批判する文脈でよく見る)も、そういった考えを知らなければ当事者はそれを当たり前、自然なことと捉え、疑問持たないまま搾取されていくのだ。

 

私は、「知ること」「能動的に学ぶ姿勢を持つこと」は差別や不用意な発言で人を傷つけないことであると同時に、自分を守る手段でもあると思っている。

 

「自分は能動的には学ばないけど、差別には反対だし、誰かに自分の言動を批判されたらその批判を受け入れるよ」という考えは一見とても平和的で良い考えに思えるけれど、差別の問題はこの「誰か」がいないことなのだと思う。

(そんなものがあるのだとしたら)なくなった差別というのはこの「指摘してくれる誰か」が多数になったからなくなったのであって、今問題になっている差別が現在になっても存在しているのは、大多数がそれを問題ない、またはわざわざ指摘するまでではないと捉えているからだと私は思う。

当事者以外誰も知らない、気づいていない、それほどまでに差別が深く根付いているから誰も指摘できない。あなた(または私)も気づかない。だからこそ能動的になることが大切なのだと思う。

 

当事者間にパワーバランスが存在する問題が発生したとき、その問題に中立であるという姿勢は必ず強者の味方になる。

中立であることはよく好意的に捉えられるけれど、場合によっては結局力のあるものの味方をしていることと変わりないのだ。

 

 

2つ目の理由はもっと単純。私達が差別をする生き物だから。ちなみにここまで長過ぎてなんの理由か忘れちゃったよ!!という私みたいな人がいたときのために再度記すと、「知らないこと」が差別を生む理由の2つ目です。

 

私は生物学を学んだわけでもないし知識もないので間違ったことを言っているかもしれないのだけど、人間は差別する生き物だと思う。正確には「区別」しているだけでそれが結果的に差別につながってしまうことがあるだけなのかな?とも思うけれど、私達は差別をする生き物だと思う。

 

ツイッターで話題になっていたオコエ瑠偉が肌の色を笑われ差別されていた話、滝沢カレンが中学時代好きな男の子にハーフだと思われないよう、髪色を少しでも黒く見せるために常に髪を濡らした状態で学校に行っていた話、水原希子がいつまでも彼女のアイデンティティーに関して揶揄され続けている話、アイクぬわらが以前話していた電車で席に座ると隣が空いていても誰も座って来ない話、「日本人は差別になじみがないかもしれないけど~」というような文章で始まる話をここ数週間何度も見たし、こういった話はいわゆる「外国人」が多い都市圏での話なのかもしれないけれど、日本にも確実に人種差別はある。私達がそういうものを見る必要がなくて、経験しなくてもいい特権があるから存在しないように見えているだけだと思う。

 

ここで私が思うのは、こういった差別が必ずしも「人種」という概念と結びついて起きているわけではないということだ。保育園で醜いアヒルの子の絵本が読まれたときにオコエ瑠偉を見て笑っていた同級生は、彼が純日本人(私はこの言葉も差別的だと思っていて使わないようにしているのだけど、適当な言葉がないので使う)でないから笑ったのではなく、正確には彼の見た目が自分たちとは違ったから笑ったのだと思う。電車でアイクぬわらの隣に誰も座らなかったのは、彼がナイジェリアンだからとか、アメリカでは黒人の犯罪率が高いから、という理由ではなく、彼の見た目が自分たちとは違ったから座らなかったのだと思う。

 

誰でも自分と違う人は怖いし、あまりにも自分と違うものは不快だ。私も自分より30cm以上背が高く体重も倍は違いそうな男性(と私は認識した)に駅で声をかけられたとき、間違ったことをしたら何かされるんじゃないかと恐怖に陥ったことを今でも思い出す。会話は平和に終了し何もなかったが、私は今でも道で男性に話しかけられると身構えてしまう。

私達は相手や対象の意図に関わらずありとあらゆることに意味付けをする。(ブルーマーのシンボリック相互作用論やデュルケーム&モースの『分類の原初形態』にだいたいこんなことが書いてある) 理系に進んで勉強したわけでもないので間違ったことを言っているかもしれないが、区別することは人間が生きる上で重要な技術だったろうし、「違い」というのは危ないものやことをさけるために認識せざるを得なかったことではないのだろうか。(間違っていたら教えて下さい。ここは本当に推測でものを話しています)

だから私は、「知るという行為」で違いを正しく理解したり、反対に、そんなに違わないのだということを認識するのが差別というものを減らしていく上で大切なのだと思う。

 

 

 

「知ること」は新たな差別心を生むのか

まずこれだけは言いたい。めっっっっっっちゃ気持ちわかる。大学1年生のときに取った必修の授業で人種について知識を深める中で、「こういう人たちがこういう理由で差別されていたのか」と知ることで自分の中に新たな差別心が生まれた気がした。何も思っていなかった、真っ平らでニュートラルだった平野にいきなりなにか柵のようなものを建てられた気がした。

 

これが差別心なのかどうかは私にもわからないが、学んだことで「この人達はこういう理由で差別されていたのだな(差別が正当化されていたのだな)…よし!差別しよう!」とは決してならなかった。むしろ学べば学ぶほどいかに差別というものが私達の社会や日常生活に広く深く蔓延しているのかということを実感し、差別や、それを生み出している不公平なシステム、考え、文化に怒りを覚えるようになった。

 

これは私が、私が過去に感じた気持ちを正当化したいだけなのかもしれないけれど、新しいことを学んだときに、(例えばそれが人種差別の話なら)「この人達差別されるんだ…」と感じることは仕方ないのだと思う。

むしろそういう思いを持ちたくないから抑圧されたグループの人々の存在を無視するというのは絶対にあってはならないのではないだろうか。どんなに不快で心がぞわぞわしても、強者であった私達は差別がある/あったことを知らなければならないし、自分たちの加害性を認識し、差別するに至った経緯を学び、繰り返さないようにしなければならないのだと思う。

 

例えばあなたが部落差別について学んだとき、なぜ部落の人々を差別するのか理解できず、自分の中にもやっとした嫌な感覚だけが残ったとしても、あなたに今そういった差別心がないのは全国水平社を代表とする人々や組織が生まれ、彼らがそういった差別心と戦ったからではないのだろうか。そういった抵抗の歴史や仕方を学ぶことも私達の義務なのではないだろうか。

 

平野に柵が建てられた、心がぞわぞわする感覚が事実であり現実なのだから、その現実から目を逸らして「自分にとって」フラットな世界で生きていくことこそ気持ちが悪いことだと私は思う。

 

実際に偏った世界で苦しんでいる人がいる横で、「新たな差別心を持ちたくないから、自分にとってニュートラルな世界で生きていたいから能動的には学ばないよ」と言っている人がいたらどうだろうか。

もし教科書からアイヌの人々や部落差別に関する歴史の記述が消えたとき、差別もなくなるのだろうか?私は、なくならないと思う。African Americanの人々がアメリカ史から排除されてきたように、彼ら被抑圧階級の人々の歴史や存在が、ただ私達の世界から消え去るだけだと思う。これこそ危険で横暴極まりないことだろう。

 

 

最初に言ったように気持ちはすごくわかるのだけど、私達は歴史的社会的文化的にごりっごりに構築されていて、各所にパワーバランスが存在していて、中立であることが中立的な働きをしないこともある世界に生きているのだと私は考えている。もしあなたが誰に対しても平等でいるように思えていても、現実はそうではないのだと思う。

 

自分が本当にある差別の当事者に対して差別的な言動をしていないか、または差別的でなくとも間接的に彼らを抑圧するような言動をとっていないかは私達にはわからない。誰にそういうことをしていて、誰にしていないのかもわからない。

だからこそ学ぶべきなのだと私は思う。学ばないと自分が差別しているかしていないかすらわからないのだ。もっと言うと、学んでも学びきれないのでいつまでもわからないのだと思うし、だからこそ能動的に学ぶ姿勢が大事なのだと思う。学ぶことで個別の事象で考えるのではなく、差別に共通することに気づけ、差別というものへの向き合い方がわかるかもしれない。

 

 

記憶が曖昧なので下手なことを言っていたら訂正してほしいのだが、最近ツイッターで「アトピー性皮膚炎の人の肌を見て『汚い』ということは本人を深く傷つけるのでやめて欲しい」という趣旨のつぶやきを見た。かなりの共感を得ていたし、いいねもリツイートもたくさんされていたように記憶している。

 

私はこの「汚い」と言った人は、相手の肌が自分の美しいと思う肌の価値観にあっていなかったから「(肌が)汚い」と発言したのだと理解し、これは一種の差別であると捉えた。ということは、「アトピー性皮膚炎の人の肌を見て『汚い』ということは本人を深く傷つけるのでやめて欲しい」というつぶやきは、その差別に対するカウンターだ。何気ない一言が差別につながる、人を傷つけるということを多くの人に知ってほしかったのだ。そのつぶやきを見た人は「アトピーの人は肌が汚いのかー…」となるだろうか?それよりも「人の肌に対して不用意に『汚い』と言う行為はその人を深く傷つけるようになるからやめよう。気をつけよう」と思うのではないだろうか。

そうであって欲しいし、私はそもそも不用意だろうとなんだろうと、どんな理由があっても人の肌に対して汚いなんて言う行為はとんでもないことだと思う。

 

あなたがこのツイートをリツイートした一人であったなら、あなたは「こういう事実があり、こういった行為は私のような人を傷つけるのでやめてほしい」ということをできるだけ多くの人に「知ってほしくて」リツイートしたのではないだろうか。

 

私は7歳の時に尋常性乾癬(じんじょうせいかんせん)という皮膚の病気にかかった。原因がわかっていないため治療法がなく、かつ身体中のありとあらゆる場所が赤くなり、少し盛り上がったような状態になる。小学2年生のときは使っていた薬に独特な匂いがあったため一部のクラスメイトに「臭い」と言われたし、スーパー銭湯で知らない年配の女性グループにわざと聞こえるような声で「感染症じゃないのかしら」「こんなところに来て大丈夫なのかしら」とコソコソ話されたこともある。

見た目というものを意識するようなってからは夏でも長ズボンだったし、制服も乾癬が隠れるかどうかが優先だったので、制服のスカートを膝ちょい上で履き、短いソックスと合わせている人を見るたび羨ましく悲しい気持ちになった。高校の水泳の授業は足首までカバーされる水着を着ていたけれど、高校1年生の時、水泳が終わり更衣室から出て靴下を履こうとしていたらクラスメイト数人に心配するトーンで「脚どうしたのー?」と聞かれた時はどうしようもない気持ちになった。

彼女たちに悪気はないし、ただ心配になって気になっただけなのだと思う。でも私は、なぜ隠していたことを説明しなければならないのか、なぜ私にとってかなりプライベートでセンシティブな問題をこんなにも軽く聞かれなければならないのかと複雑な感情を覚えた。当時の私は「今まとめて何人かに説明できてよかった」と前向きに捉えようとしていたが、確実に傷ついていたと思う。

知らなくても、悪気がなくても、些細なことでも人は傷つくのだ。ガラスなので。

 

知らないことは人を傷つけるし差別をも生み出すのだと私は改めて思う。

 

 

私の経験を紹介しながらオリエンタルという言葉がいかに差別的になり得るのかという話もするつもりだったのたが、すでに7000字が近くなってきているのでまたいつかにしようと思う。

 

 

 

最後に、人種差別など私達を取り巻く様々な問題に私達はどう向き合えばいいのか、私がここしばらく考えていたことを書こうと思う。

 

Black Lives Matter(BLM。日本語では「黒人の命は大切だ」という訳が一般的らしいが、私はこれは誤訳だと思う)の運動をウォッチする中で、この運動に参加する日本人を冷笑的な目で見ている人が少なくないことに気づいた。

 

確かに私も2週間ほど前にインスタのストーリーで「#Blacklivesmatter」のハッシュタグと友達何人かをタグ付けしリレーするという活動をする日本人が急に増え、一瞬でいなくなり、それ以降誰もなんの言及もしなくなったのを見て、「こんな一時的な、ただハッシュタグをつけ人を指名するだけの流れ作業的運動になんの意味があるのか」と思った。これなら何も言わないけれど署名をしたり、寄付をしている人のほうがずっと意味のあることをしているのではないかと思った。

 

別の話では、「BLMの運動に参加している人たちがウイグルの人が抑圧され殺されても何も言わないのは説得力がない」と言っている人も見かけた。

そのとおりだと思う。でも、私達が世界に存在するすべての問題に平等に全力で立ち向かうことなど不可能ではないだろうか。私達は毎日やることがたくさんある。大学の課題をしたり、バイトをしたり、友だちと遊んだり、本を読んだり、あつ森で島クリエイトもしなきゃいけないし、ポケモンのエクスパンションパスも買いに行かなければならない。私達に直接関係のない問題になどかまっている暇がないのだ。(私は関係がないとは思わないけれど) 私達の生活がまあほどほどに回っていればそれでいいのだ。学ぶことや考えること、何かを発信することは疲れるし時間も労力もかかる。できるならそういったものからは離れていたい。私は、人間は悲しい現実に胸を痛めた次の日にはYoutubeを見て大笑いしているような生き物なのだと思う。それとも私だけなのだろうか。いや別にYoutubeを見て大笑いとかはしていないけど。

 

それでも私は、利己的でありながらも、そういった自分の一面を認めつつ世界に存在する様々な差別や偏見、私達を生きづらくしているものに抗議していきたいと思う。

 

被抑圧階級の中にも階級があるのは明らかだし、すべての問題に平等に取り組むのは不可能だ。できるならそれが一番いいだろうが、それは理想論に過ぎない。そもそもなぜ他の問題に抗議していないことがBLMの運動に参加することの意味を損なうことになるのだろうか。全てに平等に抗議できない人がなにかに抗議していても説得力がないと言うのなら、私達は何もできなくなってしまう。「ウイグルの人々を引き合いに出すなら今地図から消えるとまで言われているイエメンの人々は引き合いに出さないのか」と、この話はいつまでも続く。

 

「BLMの運動に参加している人たちがウイグルの人が抑圧され殺されても何も言わないのは説得力がない」という言い方ではなく、「BLMだけじゃなく、ウイグルの人々の問題にも抗議しようよ」という言い方をして、みんなの声がより広い範囲に及ぶほうがずっと建設的ではないだろうか。

あなたの見えている範囲が広いなら、他の人にもその視界を分けてあげればいいのでないだろうか。

 

あまり考えずに流行りの運動に参加する人をよく思わない気持ちは理解できるが、BLMの運動をしている人々やその恩恵を受けるであろう人々からしたら、「この世のありとあらゆる差別に抗議しないと説得力がないので参加しません」と言う人より、参加してくれる、自分たちの存在や状況をアピールしてくれる人のほうがありがたいのではないだろうか。

 

私もインスタグラムに真っ黒な画像を載せることや、ストーリーでリレーすることがどれだけの意味を持つのだろうかと考えることはあるけれど、でもインスタグラムやTwitterなどのSNSがなければこの運動はここまで広がらなかったかもしれないし、全てをすることが大切なのではないかと思う。

 

自分や自分の世界に浸透している偏った考えやシステムに気づくために、またそこから行動を起こせるようになるために「学び考えること」、ある事象を知らない人々に情報が渡るように「発信すること」、外野が実際に持つ影響など微々たるものなので、当事者などその運動の渦中にいる人々をお金や署名というわかりやすいもので後援することで変化を起こしやすくすために「支援すること」、この3つを意識して私はこれからも生活していきたいし、せっかく芽生えたカウンター運動やそれに賛同するような気持ちを常日頃から持っていたいと思う。

 

 

 

 

だいぶ長くなってしまいましたが最後まで読んでくれた方(そんな人がもしいるのなら)深くお礼申し上げます。

朝思い立った勢いで書いたので乱筆乱文、考えが足りない部分、誤解していること、間違っていること、考えが古いこと、などなどあるかもしれません。ごめんなさい。そういう時はぜひ教えてくださると嬉しいです。

 

こういう文章ってどうやって締めればいいんだっけ。

ものを書かない人はこういうところで困る。

 

 

知らなかった、今も知らないことがたくさんある私ですが、こういう考え事をだらだら垂れ流すようなあほ長い文章を読んでくれるあなたに学びながら、あなたと学びながらもっと知っていこうと思っています。

 

ほんの少しでも何かを感じてもらえたら嬉しいです。

 

 

 

 

敬具(この締め方が絶対に間違っているということだけはわかる)(でも語感いいしこれで締めさせていただきます。敬具。)

 

 

 

 追記(17/6/2020):

文中で私が影響を受けたり気に入ったりしているリーディングをいくつかあげたのですが、国内大学に通う同じようなことを学んでいる知人によると、佐藤俊樹の『社会学の方法』などから読み始めるのがオーソドックスだそうです。